戦後の政策 

第二次世界大戦後、日本社会は政治、経済、産業、そして教育において様々な変化を遂げ、変化の多くは、米国の占領軍と連合国軍最高司令官総司令部(SCAP)による監督を受けれていました。しかし、占領軍と日本との関係は、単に征服者と被征服者という関係ではなく、SCAPと日本国民は、占領軍の枠組みの中で、自分たちの考えを実現するための数少ない機会を見つけては、大いに協力していたのです。

河井道と星野愛は、クエーカー教徒やニューヨークとつながりのある教育者で、占領軍による取り組みにより、女性の地位と平等な教育へのアクセスを強固なものにすることに成功しました。また、いずれも学者かつ日本専門家であるボートンやボウルズといったクエーカー教徒の指導を受けたニューヨーク出身の米国人教育者たちも、河井や星野ら日本の教育者たちと手を携えて、この改革に重要な役割を果たしたのでした。

ミルス女子大学より人文博士の名誉学位受領, 1941年

平和使節として渡米した河井道, 1941, 恵泉女学園大学
view full image

米国留学を終えて, 1905年

河井道

河井道は、恵泉女学園とYWCA(Young Women's Christian Association)日本支部を設立した教育者であり、日本女性の地位向上のために積極的に活動し、そのために世界中を駆け巡った国際人です。しかし、指導者としての地位を確立する前の若い頃、河井は内気な学生で、米国留学を決意するためには、恩師の励ましと後押しが必要なほどでした。

新渡戸稲造は、日本のクエーカー教徒で、グローバル社会と女性の地位向上を提唱した知識人ですが、彼は河合が初めて海外に渡航する際、「国際的な経験を活かして、自分の志を広げよう。」、また、

「私たちは、あなたの知性を単に伸ばすために、米国まで連れてきた訳ではありません。もしそれだけが目的なら、日本国内でも一生かけて吸収しきれないほどの勉強ができます。ここにおけるあなたの本当の教育は、本や大学の壁の外にあるのです。」と述べました。(「私の提灯」65頁)

新渡戸稲造

第1回シルバーベイYMCA大会の外国人代表者。手前(右)に座っているのが河井道、1939年

河井はクエーカー教徒の奨学金によりブリンマー大学に入学し、新渡戸が予想したとおり、大学の敷地の外で最も重要な経験をすることになります。1902年、ニューヨークのシルバーベイで行われたYWCAのキャンプに招待された彼女は、そこで若い女性たちの仲間意識と自由さを目の当たりにして驚き、啓発を受けました。

「シルバーベイでは、10代後半の米国人少女たちの明るく幸せな乙女心を垣間見ることができました。この時期に日本の少女たちは人生から取り残されているようなものですが、10代前半はのんびりと幸せな時間を過ごしていても、突然、女としての自覚が芽生えてくるのです。」(「私の提灯」91-92頁)

河井 は、キャンプに参加した他の少女たちが見た様々な未来に啓発され、日本の女性の将来の機会を広げるために自分がどう貢献できるかについて考え始めました。この体験の後、YWCAは河井の人生にとって不可欠なものとなりました。

帰国後、日本では数少ない女性のための高等教育機関であり、米国のクエーカー・コミュニティと深いつながりを持つ津田塾大学の教員になりました。YWCAとのつながりは深く、日本支部の創設メンバーとしても活躍しました。1915年、河井は津田塾大学を辞し、再びニューヨークに戻り、YWCAの全国研修学校で1年間勉強した後、全国の幹事に就任しました。その後10年間、彼女はYWCAのシニア・リーダーであり続け、数多くのプロジェクトに取り組みました。

津田梅子より河井道あての書簡, 1916, 恵泉女学園大学

河井の経歴と人生において、ニューヨークは更に複数回重要な役割を果たすことになります。1920年、彼女はユニオン神学校に入学しましたが、日本で病弱な母の世話をするために数ヶ月で退学し、6年後、YWCAの特別職と次の事業である東京のキリスト教女学校を立ち上げる調査のために再びニューヨークへ戻りました。神学校とYWCAでの経験は、キリスト教教育への理解を深め、また、寄付者のネットワークを広げる機会となり、学校運営を軌道に乗せる上で不可欠なものとなりました。

英語, 1929, 恵泉女学園大学

1927年、河井は東京で恵泉女学園を設立しました。この学園では、キリスト教学と国際学を重視しており、米国のクエーカー教徒であった彼女にとって、これは幼少期からの重要なテーマでした。

第二次世界大戦から戦後の占領期まで、20年間にわたり恵泉女学園で学長を務め、国内外に幅広い人脈を持つ経験豊かな教育者となり、SCAPが日本の教育制度改革に貢献する人材を求めていた時期と重なり、河井は、津田塾大学の元同僚で、クエーカー奨学生でもあった星野愛とともに、SCAPにより即時採用されました。

星野愛

星野愛は、ニューヨークの大学院で学び、津田塾大学の学長を務め、戦後期において、女子高等教育機関である大学のステータスの確保に貢献した日本の著名な学者です。

星野は、津田塾大学を卒業後、1906年にクエーカー教徒の援助を受けて渡米しました。フィラデルフィアにあるブリンマー大学に留学中はクエーカー教徒の家庭で暮らし、新渡戸稲造の妻メアリー・エルキントンの実家であるエルキントン家にも頻繁に出入りしていました。エルキントン夫妻は、津田塾大学を経済的にも個人的にも一貫して支援していたため、彼女とエルキントン夫妻の関係は生涯にわたって重要なものとなりました。

津田塾大学の二代塾長星野あい、1929年

星野あい、1951年

1912年、米国から帰国した彼女は、母校である津田塾大学の教員となり、15年以上にわたって教鞭を執りました。

1928年、星野は再び渡米し、ニューヨークのコロンビア大学教育大学院で修士課程に進学して、ニューヨークを重要な拠点としました。翌年、帰国した後、津田塾大学の第2代学長に就任するための資格を取得しました。

星野あい記念図書館、津田塾大学津田梅子資料室

星野あい記念図書館

星野あい記念図書館、津田塾大学津田梅子資料室

関東大震災後の新キャンパス建設や第二次世界大戦時の不安定な期間を含め、星野は激動の時代においても大学を統率しました。また、戦前から戦後にかけて、女子教育は不安定な状況に置かれ、その将来を見据えた多くの必要な改革を進めることができませんでした。しかし、ニューヨークで受けた高度な訓練と、米国東海岸のクエーカーや学界とのつながりもあり、1946年の米国教育使節団との関係を通じ、戦後、彼女のアイデアの数々が実践される機会を得ました。

1946年に派遣された米国教育使節団

1946年に派遣された米国教育使節団は、著名な3人のクエーカー、つまり、コロンビア大学教授で国務省職員となったヒュー・ボートン、日本生まれの人類学者でシラキュース大学教授のゴードン・ボウルズ、日本の文部大臣で新渡戸稲造の弟子かつ元ニューヨーク日本文化協会理事の前田多聞を含む多くの人々によって段階的に提案されました。同使節団は、日本の教育の現状を評価しSCAPに改革を勧告するために多くの米国の学識者を派遣しました。

1946年のストッダード訪日団メンバー。中央前列左から4人目が女性教育者のエミリー・ウッドワード、バージニア・ギルダースリーブ、イリノイ大学学長のジョージ・C・ストッダード。右から4番目はパール・A・ワナメーカー、5番目がミルドレッド・マカフィー・ホートン。後ろはアフリカ系アメリカ人の教育者チャールズ・S・ジョンソン、その左はカトリックの教育者ロイ・J・デフェラーリ 『近代教育の3つの時代』ロナルド・アンダーソン著

前田多聞 世界教育連盟第7回隔年大会、東京、日本, 1937年

使節団の一員となったボウルズは、唯一の本格的な日本専門家として重要な役割を果たしました。ニューヨーク州教育長官ジョージ・ストッダードを団長とし、ニューヨークのバーナード大学学長バージニア・ギルダースリーブ、コロンビア大学教授ジョージ・S・カウンツらを含む27名が参加しました。この使節団は、日本の教育関係者の協力と指導によって作業が進められました。
イリノイ大学のジョージ・D・ストッダード学長(右)とマーガレット夫人(中央)が、イリノイ州の卒業生と話す
バージニア・ギルダースリーブ,1905 年から 1945 年の間

ジョージ・S・カウンツ、年代不詳

George D. Stoddard

John N. Andrews

Harold Benjamin

Gordon T. Bowles

Leon Carnovsky

Wilson Compton

ジョージ・ストッダード

Roy J. Deferrari

George W. Diemer

Frank N. Freeman

Kermit Eby

Virignia C. Gildersleeve

Willard E. Givens

Ernest R. Hilgard

Frederick G. Hochwalt

Mildred McAfee Horton

Charles S. Johnson

Isaac L. Kandel

E. B. Norton

Charles H. McCloy

T. V. Smith

David Harrison Stevens

Paul P. Stewart

Alexander J. Stoddard

W. Clark Trow

Pearl A. Wanamaker

Emily Woodward

ヒュー・ボートンの親友である東京帝国大学総長の南原繁が中心となり、「日本教育者委員会」が結成されました。著名な女性教師として河井道や星野愛が委員に名を連ねていたほか、新渡戸稲造の門下生も多く、日本側にもクエーカーの強い影響がありました。

ボウルズとボートンは、使節団が日本に派遣される前の戦前から、後の国務省の政策の基礎となる提案書を作成し、使節団の最終報告書の基礎の一部となったように、日本の学校制度改革について試行錯誤していました。

ジョージ・サンソム、南原繁、ヒュー・ボートン教授, 1949年

今日、米国教育使節団は、それ自体が論争の的となるレガシーを有しています。同使節団は戦後の学校政策に多大な影響を与えたにもかかわらず、その作業期間は極めて短いものであり、突貫工事による報告書の作成(情報収集に3週間、報告書作成に1週間)、委員の日本に対する知識不足、漢字教育の廃止の提言など、多くの論争がありました。

1947年訪日教育使節団のメンバー。前列 フランク・フリーマン、アーネスト・R・ヒルガード、エミリー・ウッドワード、GDS、デビッド・H・スティーブンス、ウィルソン・M・コンプトン、グレッグ・M・シンクレア。中列: ジョージ・W・ディーマー、テイン・M・リブセイ、E・ヴァーン・セイヤーズ、T・V・スミス大佐、W・H・ローパー。後列 ジェームズ・シューメーカー、ロバート・フォークナー、ジョン・F・エンブリー、ポール・S・バックマン、1946年
イリノイ大学の年次評議員会。左から右へ着席: ジョージ・D・ストッダード学長、ケニー・E・ウィリアムソン氏(理事長)、H・E・カニンガム氏(理事会書記)、1949年

しかし、幾つかの項目については使節団の中でも大きな意見の相違があり、例えば、ボウルズは漢字教育の廃止に反対した一人でした。それらの欠点にもかかわらず、学者たちは、使節団の報告書と同報告書に基づくその後の政策の多くは、短期間の訪問で急いで作成された内容以上の影響をもたらしたと指摘しています。実際、報告書の多くの内容は、ボートンとボウルズが以前に作業していたものに加え、何年も前から独自の提案を行っていた日本人顧問から出されたものであり、ボウルズは、使節団の報告書の6割は日本側から提出されたものであると推定しています。

使節団が帰国した後も、日本人顧問は占領軍当局との作業を継続しました。

「(日本諮問)委員会には、リベラルな読書家が多く、そのうちの何人かは、過去に自らの努力によって苦しんだ経験があり、将来直面するだろう多くの課題を深く認識していました。」

– (ボウルズ、「日本占領期における教育・社会改革」シンポジウム、520-521頁)

ゴードン・ボウルズ、年代不詳

河井と星野は、この改革の機会に、全国的に女子教育を推進した人物です。1945年末からSCAPに参加し、既に占領軍の男女別学政策を示す初期の文書の一つである「新女性教育改革総合計画 」の起草に尽力していました。教育使節団の到着後、二人はこの作業を継続することができ、最終的な方針は施設団に委ねられましたが、報告書の多くに二人の作業の影響を読み取ることができます。

「私たちは、小学校を男女共学で実施することを推奨します。」
「優秀な学生を支援する義務は、最近公表された女性の権利に関する宣言によって、大きく高まっています。」
「高等教育機関へのアクセスの自由は、現在、高等教育を受けるために準備しているすべての女性に直ちに提供されるべきです。」

“[Junior high schools] should become coeducational, as rapidly as conditions warrant, the principle involved being as applicable at this level as in the primary schools.”

“Beyond the [junior high schools], we recommend the establishment of a three year [high school], free from tuition fees and open to all who desire to attend. Here again, coeducation would make possible many financial savings and would help to establish equality between the sexes…These schools should include academic courses leading to entrance to colleges and universities, as well as courses in home-making, agriculture, and trade and industrial education.”

“This obligation to assist the brightest students is greatly increased by the recently declared position on the rights of women. This bold and admirable move has settled the issue of equal rights in principle; it now is necessary to confirm the principle in action. In order that equality be generally true in fact, steps are necessary to insure to girls in earlier years an education as sound and thorough as that of boys. Then a good foundation for training in preparatory schools will place them on really equal terms with men for admission to the best universities.”

“Freedom of access to higher institutions should be provided immediately for all women now prepared for advanced study; steps should be taken also to improve the earlier training of women.”

学長・星野あいと談笑する藤田たき(左)、Ms. Becka Morton (右)、1947年、津田塾大学津田梅子資料室

いずれも、河井や星野をはじめとする日本のリベラル派が、長年にわたって主張してきたことです。戦後の政治が変化する中で、彼らはようやくそれを実現する機会を得たのであり、その切迫感は際立っていました。星野は回顧録の中で以下のとおり語っています。

 

「この機会を逃したら、おそらく二度とチャンスは巡ってこないだろうと思いました。」(星野「祥伝社」105-106頁)。

小学校の男女共学化、一般大学への女子入学、女子高等教育機関の大学としての認可など、使節団の提言の多くは、その後公式の政策になりました。

これらの画期的な成果は、日本における女性の平等な教育という共通のビジョンを持った、ニューヨークやクエーカー、又はその双方を代表する日米の教育者たちの共同作業によってもたらされました。